「透明マントの人」と呼ばれて|光学迷彩の四半世紀
初めて会った方に大学で教えていると話すと、「どんな研究をしているんですか」とよく聞かれる。相手が研究者なら「人間拡張です」と一言。学生や技術系の方には、「VRやロボットを使って人間の能力を拡張する研究です」と少し長めに。そして一般の方には、こう答えるようになった。「透明マントとか研究していたりします」。
ただ、こう答えられるようになるまでには、長い回り道があった。
「透明マントを作った人」
私はこの四半世紀、そう紹介され続けてきた。
2022年9月3日、東京大学の公式アカウントが、ドラえもんの誕生日にちなんで私たちの透明マントを紹介した。研究の解説ではない。ひみつ道具の話である。それが、いまのところ東大公式のXの投稿でいちばん読まれたものだという。

大学が差し出した学問の入口が、ひみつ道具の形をしていた。
物語が用意した席
世に知られたのは2003年である。舘研究室で川上直樹さんたちと開発した光学迷彩が、TIME誌の「今年のクールな発明」に選ばれた。再帰性反射材のコートに、背後の景色を投影する。コートに覆われた部分が、透明になったように見える。各国のテレビが「invisibility cloak」と報じた。

再帰性投影技術による「光学迷彩」(撮影:Ken Straiton)
タイミングも良すぎた。前々年にはハリー・ポッターの映画が公開され、透明マントは多くの子どもの憧れになっていた。そして私たちの参考文献は、攻殻機動隊の熱光学迷彩だった。博士課程のころ、研究室の助手だった前田太郎先生から「自分と議論したければ、これを読んでおくように」と何冊か渡された、その一冊である。読んで世界観とテクニカルタームを体に入れておかないと、研究室の会話についていけなかった。教養書だったのだ。物語が先に言葉を用意していて、技術があとから、その言葉の席に座った。
技術は、仕様書の言葉ではなく、物語の言葉で社会に受け取られる。私がこのことを身をもって学んだのが、光学迷彩だった。
もしこれが「透明マント」という名前だったら、開発しようとは思わなかったかもしれない。カメレオンのように自分の色を変える、という着想が補助線になった。名前は、受け取る側だけでなく、作る側の発想も決めていた。
水晶玉と、書けなかった原稿
もっとも、始まりはもう少し地味だった。
私たちが作っていたのは、再帰性反射材に立体映像を投影する技術である。それまでのデモは、球に反射材を吹き付けたものだった。水晶玉の中に映像が浮かんで見える。だから「MEDIA X'tal(メディアクリスタル)」と名付けた。きれいではあるし魔法感もあっていまでも好きな研究だが、ディスプレイどまりとも言える。バーチャルな物体を装置の中に閉じ込めたように見せ、外から眺めたり、装置ごと動かしたりする。そういう装置を、当時の私たちは「オブジェクト指向型ディスプレイ」と呼んでいた。液晶の箱や、再帰性反射材とプロジェクタを組み合わせた立体映像装置を試作していた。
実は、そのころの私は、一つの失敗を引きずっていた。
1997年、博士課程二年で初めて参加したACM SIGGRAPHというコンピュータグラフィックスとインタラクティブ技術に関する巨大な国際会議で、四枚の液晶ディスプレイを箱型に組んだMEDIA³(メディアキューブ)という作品を出展した。

MEDIA³(メディアキューブ)
慣れない英語で頑張って展示をしていると、熱心にデモを体験していただいた方から名刺を渡された。名刺にはCommunications of the ACMの編集長と書かれていた。CACMといえば情報学分野で、世界中の研究者が読む雑誌である。この研究のコンセプトを記事に書いてみないか、と言われた。研究者の卵だった当時の私には、パーッと未来が拓けるようなこれ以上ない誘いだった。だが当時の私は、英語の論文をようやく一本書いたばかりで、自分には無理だと思ってしまった。励ましのメールに返事を書くこともできないまま、企画は消えた。大きなチャンスと理解していた。でも書けない。PCを前に呻吟する夢にうなされて飛び起きる夜が、しばらく続いた。
一人の徹夜
1998年1月28日、私は翌日から北海道大学で開催される研究会での発表を控えていた。帰り道で、ふいにペッパーの幽霊を思い出した。いまでもテーマパークや舞台に登場し、ホログラムと称されることも多い、あの古い舞台仕掛けである。小学生のころに愛読していた『手品・奇術入門』(引田天功監修)で紹介されていた、棺桶の中の人が骸骨に変化するというマジックのことだ。体に骸骨を重ねて出したら面白いのではないか。研究室に戻り、一人で徹夜して装置を組み、撮影した。うまくいった。

X'tal Vision: 再帰性投影技術 Retroreflective Projection Technology (RPT)
使ったのは、ラボにあった再帰性反射材と、ハーフミラーとプロジェクタ。アルミ箔とシャープペンシルでピンホールを作った。いまの学生に徹夜を勧める気はないけれど、あの晩は朝までに形にしてしまいたかった。この効果を体験したとき、真実を知っているのはまだ世界で私だけだという興奮もあった。
翌29日と30日、北大での研究会でその映像を出した。この発表は、のちに情報処理学会の山下記念研究賞を受けた。論文の筆頭著者は川上直樹さんだったが、賞の選考では異例にも私も共同筆頭として扱われ、二人での受賞になった。誰が何をしたのかをしっかり見ていて、それを応援しようとする人が、まわりにいたということである。ちなみに私が情報処理学会に入会したのは、この受賞候補になったという学会事務局からの電話だった。「おめでとうございます!あなたは山下記念研究賞の候補になりました。学会員でないと授与対象にならないので、つきましては入会手続きを…」と聞いたときは「おめでとう商法」の勧誘みたいだね、と川上さんと笑いながら顔を見合わせた。
翌1999年の3月、ヒューストンのIEEE VRで、指導教員の舘暲先生がこの方式をパネルセッションで紹介した。会場にいた矢野博明先生から後で聞いた話では、骸骨動画が流れるとその大会の基調講演者だったフレデリック・ブルックス先生が真っ先に立ち上がって拍手し、会場も総立ちになったという。私はその場にいなかった。自分のいないところで、自分たちの仕事が誰かに届いていた。研究を続けていると、そういう魔法のようなことが起きる。
同じ年の夏、SIGGRAPHで展示をしたときのことは、自分の目で覚えている。私たちが本当に見せたかったのは、頭部搭載型プロジェクタのほうだった。ただ、あれは一人ずつ装着してもらう装置なので、どうしても行列ができる。並んで待っている人に原理だけでも分かってもらおうと、脇に置いたのが光学迷彩である。人気が出たのは、脇に置いたほうだった。

頭部搭載型プロジェクタの最初のプロトタイプ
この方式がフルペーパーとして国際会議に出たのは、翌2000年のIEEE VRである。論文の主役は、実は透明マントではない。バーチャルな物体に触れるための装置は、それ自体が視界を塞いでしまう。それを透かして、見た目の邪魔をなくす。Augmented Reality(AR:拡張現実感)の逆で、視覚的に減算する。いまの言葉でいうと、Diminished Reality(DR:縮減現実感)だ。Optical Camouflage、光学迷彩という言葉は、この論文では脇役として登場している。ここまでが、TIME誌でブレイクするより前の数年の話だ。
アーサー・C・クラークは、十分に発達した科学技術は魔法と見分けがつかない、と書いた。あの晩に骸骨を浮かべたときも、行列の脇で人が驚いた顔をしたときも、私が見ていたのは魔法ではなく、光の道筋だった。それでも、魔法のように見えることの力は本物だ。
期待と、実物のずれ
ただし、ずれもあった。
「透明マント」と聞いた人が期待するのは、どこから見ても消えることだ。けれど私たちが作っていたのは、消える装置ではなかった。決められた位置から見ると、向こう側の景色が表面に重なり、たしかに透明になったように見える。そこから顔を横にずらせば、その見え方は崩れる。消すことではなく、見え方を変えることだ。
TIME誌に載ってから、研究室のアドレスにはずいぶん雑多なメールが来るようになった。海外の軍関係者のみならず、ある英国の企業からは、署名に「軍事および特注品の調達」とあり、テヘラン、モスクワ、ワシントンDCを記した拠点一覧が添えられた照会が届いた。二年半後にもう一度、そろそろ製品になった頃ではないか、と念を押してきたが、丁重にお断りしてもらった。同じころ、ロンドンの帝国戦争博物館からは、迷彩をめぐる展覧会の本に載せたいと言われた。英国の狩猟雑誌からは、新しい迷彩技術として取材を受けた。BBCをはじめ子ども向けのテレビ番組や科学館からも依頼が来た。米国の高校生からは、「どこから勉強を始めればいいですか」というメールも届いた。一つの装置が、これだけ違う場所から呼ばれる。名前は、作った人間の手を離れて歩いていく。うれしいことばかりではない。
過去の成功は、研究者にとって呪いになることもある。
若いころの私は、そう思っていた。取材依頼は光学迷彩ばかりで、いま取り組んでいる研究にはなかなか声がかからない。光学迷彩を超えるインパクトのある仕事ができていないという焦燥感もあり、その依頼を断っていた時期もある。でもずいぶん経ってから、考えが変わった。光学迷彩を入口としていまの研究を紹介してもらえばいいのだ。物語の言葉は正確ではない。けれど正確な言葉より、ずっと遠くまで届く。
入口が開いたままになっていた時間の長さに、驚かされたこともある。2010年、日本科学未来館の「ドラえもんの科学みらい展」で、私たちの技術は透明マントとして展示された。あのとき小学生でそれを見た少年が、いま私の研究室の博士課程にいる。
名刺であり、檻でもある
一方で、名前は檻にもなる。
「透明マントの人」という席が用意されると、社会はその席に私を座らせ続けようとする。研究者には誰しも、多かれ少なかれ「代表作」がある。論文かもしれないし、装置かもしれないし、たった一枚の写真かもしれない。代表作は名刺であり、同時に、「あなたはもうそれをやった人だ」という過去形の宣告でもある。
四半世紀付き合ってみて、いまはこう考えている。代表作は、自分の説明ではなく、他人のための入口である。入口は古くてもかまわない。名前を檻にしないために、その先の廊下をいまの自分につなげておけばいい。
だから、まだ自分の代表作がないと思っている人に、そんなに焦る必要はない、と言いたい。代表作は、狙って作れるものではなかった。私の場合、書けと言われた原稿は書けず、誰にも頼まれていない徹夜が、いまも入口として働いている。あの二つは、一年しか離れていない。逆に言えば、いま目の前にある地味な実験のほうが、そうなるかもしれない。
書けなかった原稿のほうにも、続きがある。
あのとき失われたのは、研究成果ではなかった。MEDIA³も光学迷彩も、記事がなくても世に出た。失われたかもしれないのは、二十五歳のうちに「未熟でも英語で世界に差し出していい」と知る経験のほうである。穴が開いたのは技術の履歴ではなく、私の履歴だった。
遅れて閉じる輪もある。だから焦らなくていい。ただ、まだ準備できていない自分に過分な依頼が来たときは、返事だけでも書いておくといい。二十五歳の私に言えることがあるとすれば、それだけだ。
廊下の先
では、光学迷彩の廊下はどこにつながっていたか。
透けるコートは、車の外装にはあまり役に立たないが、内装を透かすというアイデアにつながった。それが「透明コックピット」になり、コンセプトカーへも発展した。けれど本当の続きは、装置ではなかったと思う。光学迷彩が私に残した問いは、「どうすれば消えるか」ではなく、「見えているとは、どういうことか」だった。身体の見え方を変えられるなら、身体の感じ方も変えられるのではないか。そこから先が、私がいま「自在化」と呼んでいる研究になった。

透明コックピット
そしてもう一つ、光学迷彩から持ち越した言葉がある。透明、である。
四半世紀前、私たちはコートを透けて見せた。いま考えたいのは、人と技術のあいだの透明性である。機械が何を見て、何を判断しているのか。それが人に透けて見えること。この連載で配信した短編「透明な席」は、その問いを物語にしたものだ。透明マントの廊下の、いちばん新しい部屋として、読んでもらえたらうれしい。
すでに登録済みの方は こちら