空の見える場所|いつか、自在 第二篇
7月28日の熊本の地震で被害に遭われた皆さまに、心からお見舞いを申し上げます。その後も地震が続いています。九州の読者の皆さまも、どうかご無事で。
お知らせです。しばらく別の仕事が立て込んでいるため、配信は、隔週を目標にします。
研究室には、ときどき奇妙な相談が来る。
腕が勝手に遠隔操作される。
衛星から聴覚を刺激されている。
触覚を制御されて不快なので、直してほしい。
あるとき、「家に透明人間が来るから、見に来てほしい」と言われ、別にゴーストバスターズじゃないんだけどなぁ、と独りごちた。あ、でも、あれも元研究者たちが主人公の映画だった。
昔なら、「変わった人もいるな」で話が閉じられてしまったかもしれない。だが、自在化技術の側から見ると、そう簡単には笑えない。
遠くにいる人の手の動きを、こちらの手に返す。
身体の一部を、別の身体に貸す。
触覚を記録し、再生し、誰かの皮膚に小さく重ねる。
こうした技術の前提には、触覚も電気信号だという事実がある。私は博士課程の頃、その信号を聞いた。針よりも細い電極を手首の神経に刺す「マイクロニューログラム」に関する実験に、被験者として参加したのだ。電極がうまく神経に入ると、指先の数ミリの一点に触れただけで、信号を増幅したスピーカーから「ボッ、ボボボボ」と音が鳴る。
もっと驚いたのは逆向きだった。電極から神経へ電気信号を入れると、何も触れていないはずの指先に、「コンコン」と叩かれたような明瞭な触覚が返ってきた。電極は手首にあるのに、感じるのは指先である。針一本で、感覚は作れる。しかも、作った場所とは違うところに。私が学生だった頃から、そうだった。
その信号を身体の外へつなぐのが、パラサイトヒューマンや身体共有の研究だ。どちらも、人間の「自分の身体」の境界を少しずつ動かしてきた。拡張した腕を付け替えて交換する「自在肢」の研究にしても、元ネタの一つは川端康成の怪作『片腕』である。娘が自分の右腕を外して、一晩だけ貸す。あの小説を、私たちは機械で追いかけている。
そしていま、私の研究室の学生たちが、肩に載る腕を作っている。EmoMimeという、肩に着ける拡張肢だ。気持ちをハンドサインで表現する。考えごとのとき、自分の頬にそっと触れる。人が自分で自分に触れて落ち着く仕草を、機械の手が代わりに差し出す。いつか人工の筋肉が生地に織り込まれれば、見た目はただのコートに近づき、肩に手が触れているのが当たり前になるだろう。作っている私たちが、少しだけ怖い。
機械の手が外から皮膚に触れる方法もあれば、手首から神経へ信号を入れて、手のひらに触覚だけを作る方法もある。触れるものが、そこになくてもよくなる。
そうなると、誰かに触れられることは、日常になる。人の手が触れたのか、機械が触覚を描いたのか、区別が難しくなる。
そして、触覚が通信になるということは、通信につきものの事故もまた、身体の側で起きるということだ。
すると、古い怪談や都市伝説みたいな言葉が、技術の言葉に近づいてくる。
誰かに触られている。
誰かに操られている。
自分の内側に、自分ではないものがいる。
それが苦痛なら、まず苦痛として聞く必要がある。原因が心にあるのか、機械にあるのか、環境にあるのかは、そのあとでよい。
以下は、そのことを考えるための短い物語である。
行ってらっしゃい

「衛星から、触られます」
柏木真央(かしわぎ・まお)は、研究室の窓際の机で、椅子に浅く腰かけていた。
紺色の仕事用の上着を着たまま、黒い鞄を膝に立てている。
窓の外に、葉を落としたけやき。その向こうに、細く晴れた空。窓のずっと下では、襟を立てた人たちが駅へ急いでいた。
そう言って、柏木は右手で左の手首を押さえた。押さえたまま、続けた。
「……変に聞こえるのは、分かってるんです。この、手のひらのあたりに、針で刺されたような痛みが来ます。二回。毎朝、会社の最寄り駅の、東口の改札を出たところで。もう、一年になります」