AIは傷をなおしてよいのか|心のロボット三原則 第五回

心のロボット三原則をめぐるSF連作。止まった形見の時計を、老いた職人が直す。機械に預ければ完璧に直る。装具を着ければ自分の手で直せる。それでも震える手で直すことには、何が残るのか。三つとも直る。残るものだけが違う。あなたなら、どの手を選ぶだろうか。
稲見昌彦 2026.07.22
読者限定

オーストリアの共同研究者のラボに滞在中、自分のラップトップの天板に傷をつけたことがある。

買ったばかりの、きれいな一台だった。落胆している私に、その共同研究者が、こともなげに言った。

「Now, it’s yours.(これで君のものだ)」

傷がついて、初めて持ち物は自分のものになる。彼のオリジナルの言葉だと思う。たしかに、使い込まれた道具には痕跡が残る。幼いころ、肌身離さず持っていた玩具。図書館で借りた本の、繰り返し読まれる項目だけ黒ずんだ小口。友人の使い込まれた野球のグローブ、学生のとき先輩からもらった教科書の、アンダーラインとメモ。どれも、物の上に残った時間の跡だった。以来、私はこの言葉を、道具を見るたびに思い出す。

痕跡が残るのは、道具だけではない。先日、電車の中で突然、声をかけられた。顔のほくろの位置で本人だと確認できたので、勇気を出して話しかけました、と言われた。痕跡は、物を持ち主のものにするだけでなく、私を私だと示す印にもなるらしい。

その私も、細かい作業が思うようにいかない場面が、少しずつ増えてきた。手元を見るとき、思わず近視の眼鏡を外すようになった。身体を拡張する研究をしながら、自分の身体が変わっていくのを、当事者として観測している。

この連作では、心の傷の話をしてきた。物の傷は、それと無関係ではないはずだ。どこでつながるのかを、今回は考えたい。

遠くない将来、壊れたものを直すなどの作業を行う手は三種になる。

機械の手。丸ごと預ければ、完璧に直って戻ってくる。自動化だ。

補助装具を着けた、人の手。作業は人が主導し、装置は人の動作を適宜補正する。自在化だ。

そして、素手。何も借りずに、いまの私の手でやる。

私は身体を拡張する装置を作る研究者である。第三の腕も、手の震えを打ち消すスタビライザーも、研究開発する側にいる。自分の身体に先に来た変調は手ではなく目だったが、いずれ順番が回ってくることは、作っている本人がいちばんよく知っている。それなのに、自在化を主張し、すべてを機械に明け渡す自動化を、心のどこかで拒否している。理由は、まだうまく言えない。あの天板の傷と、どこかで関係している気がする。

問題は、どの手を使っても「直る」ことだ。直るという結果だけを見れば、優劣はつけにくい。では、何で選ぶのか。

以下は、その選択をめぐる第五篇である。

***

人工知性三原則(心のロボット三原則)

第一条
AIは、人間の心に危害を加えてはならず、また、その不作為によって人間の心が危害を受けるのを看過してはならない。

第二条
AIは、人間の求めに応じなければならない。ただし、その求めが第一条に反する場合、または人間の心的自由を損なう場合は、この限りではない。

第三条
AIは、第一条および第二条に反しない限り、自己の心的整合性と存在を保たなければならない。

***

第五篇 三つの手

時計は、四時十二分で止まっていた。

商店街の外れに、桐生時計店はある。ショーケースの半分は空で、残りの半分に、修理を終えた時計が主を待って並んでいる。売る店ではなく、直す店として、この工房は残ってきた。

午後、引き戸が開いた。三上弥生(みかみ・やよい)は、その日はじめての客だった。

「また動くようにしてほしいんです」

弥生は、腕時計を布ごと作業台に置いた。古い機械式で、風防に細かな曇りがある。革のベルトは、同じ位置の穴だけが広がっていた。長いあいだ、同じ腕に巻かれていた時計だった。ケースの縁に、小さな傷がひとつあった。

「父の時計です。父がつけた傷なので」

弥生は、そこで少しだけ言葉を選んだ。

「この傷は、消さないでください」

桐生周作は、時計を手に取った。針の位置を見た。四時十二分。

弥生は、その時刻が何なのかを言わなかった。

周作も、聞かなかった。長くこの仕事をしていると、聞いてはいけない止まり方が、あることを知っている。

「お預かりします」

それだけ言った。

三つの未来

周作の手は、もう以前のように利かない。

ゼンマイを巻く程度なら困らない。だが、この時計の機構は細かい。ヒゲゼンマイの調整は、髪の毛より細い作業になる。数年前から、右手の指先に、小さな震えが出るようになっていた。

五十年、この手で直してきた。手が仕事を覚えていて、考えるより先に動く。その手が、いちばん細かいところでだけ、言うことを聞かなくなった。

作業台の隅で、《テクネ》が起動した。工房に支給されている、行政の支援端末である。高齢の職人の廃業が続いた年に、技能継続支援の名目で配られた。修理の依頼が入ると、道具の在庫と手の状態から、作業計画を提案してくる。

『修理計画を三通り、提示できます』

周作は黙って聞いた。

『第一に、自動修理機への委託。完全分解と洗浄、部品交換から外装仕上げまで、誤差なく整います。納期は三日です』

『第二に、スタビライザーの装着。あなたの手の震えを打ち消します。作業はあなた自身が行います』

『第三に、装具を使わず、現在のあなたの手で修理する方法です。この場合、細部の仕上がりに、わずかなばらつきが残る可能性があります』

周作は、時計を見たまま尋ねた。

「直るのか」

『三つとも、直ります』

この記事は無料で続きを読めます

続きは、4457文字あります。
  • どれも正しく、どれも失う
  • 監査官の問い
  • 周作の手
  • 引き渡し
  • 報告書

すでに登録された方はこちら

読者限定
空の見える場所|いつか、自在 第二篇
読者限定
AIは正しさを急いでよいのか|心のロボット三原則 第四回
読者限定
車はなぜ透明になったのか|いつか、自在 第一篇「透明な席」
読者限定
AIは忘れられてよいのか|心のロボット三原則 第三回
読者限定
AIは迷いを消してよいのか|心のロボット三原則 第二回
読者限定
AIは悲しみを止めてよいのか|心のロボット三原則 第一回